稲盛和夫「生き方」要約感想!仕事にも徳が必要だった?

稲盛和夫「生き方」

稲盛和夫さんの「生き方」を読んだので、学んだことを中心に要約し、感想をお伝えします。黄色のボックスは私の個人的な感想です。

  1. 人生の目的は心を高めること、魂を磨くこと
  2. 日々の労働によって心は磨かれる
  3. 求めたものだけが手に入るという人生の法則
  4. 楽観と悲観
  5. 努力の積み重ねれば平凡は非凡に変わる
  6. 現場に宿る「神の声」が聞こえているか
  7. 考え方
  8. 「好き」であればこそ「燃える」人間になれる
  9. 視点を変える
  10. リーダーには才よりも徳が求められる
  11. 心を磨くための六つの精進
  12. どんなときも「ありがとう」といえる準備をしておく
  13. 感謝の心が幸福の呼び水なら、素直な心は進歩の親
  14. 三毒をいかに断ち切るか
  15. 利他にビジネスの原点がある
  16. 利他に徹すれば物事を見る視野も広がる
  17. 因果応報の法則
  18. 不完全でもいい、精進を重ねることこそが尊い
  19. 災難があったら「業」が消えたと喜びなさい
  20. 存在が花をしている
  21. 最後に感想

人生の目的は心を高めること、魂を磨くこと

嘘をついてはいけない、人に迷惑をかけてはいけない、正直であれ、欲張ってはならない、自分のことばかりを考えてはならないなど、だれもが子供のころ、親や先生に教わったた単純な規範を、そのまま経営の指針に据え、守るべき判断基準としたのです。

このような当たり前な規範を理解することが意外と難しい気がする。そもそも、周囲の親や先生の規範が曲がっていたりすることが多いと思う。例えば、起業という行為は、公務員の先生や安定志向の親には「悪」と捉えられる。すると、世の中のための起業ということも、規範上よくないこととされてしまいそう。

また、このようなまじめな価値観を持つと、ブラックジョークなどの道徳からはずれたような文化が生まれにくくなりそう。でも実際はそのようなブラックジョークが人のためになることもあると思う。

では、「プラス方向」の考え方とは、どんなものでしょう。むずかしく考える必要はありません。それは常識的に判断されうる「良い心」のことだと思っていただければよいでしょう。

よい心 ー とくに「世のため、人のため」という思い ー は、宇宙が本来もっている「意志」であると考えられるからです。

常識的に考えるっていう考え方だと、ちょっと変わった考えだけど良い方向のものが出てこなさそう。少し抑圧的。自由が悪いことと思ってしまっている人もいるし。

日々の労働によって心は磨かれる

精進とは、一生懸命働くこと、目前の仕事に脇目もふらず打ち込むことです。私はそれが私たちの心を高め、人格を練磨するためにもっとも大事で、一番有効な方法であると考えています。

労働には、欲望に打ち勝ち、心を磨き、人間性をつくっていくという効果がある。

つまり汗にまみれ、泥にまみれて働き続けた「田畑での精進」が、自身も意識しないうちに、おのずと彼の内面を深く耕し、人格を洞爺し、心を研磨して、魂を高い次元へと練り上げていったのです。

ラテン語に、「仕事の完成よりも、仕事をする人の完成」という言葉があるそうですが、その人格の完成もまた仕事を通じてなされるものです。いわっば、哲学は懸命の汗から生じ、心は日々労働の中で練磨されるのです。

私は、たとえば宮大工の棟梁のように、一つの職業、一つの分野に自分の一生を定め、その中で長く地道な労働を営々と重ね、おのれの技量と人間を磨いてきた人物に強く魅了されます。

最後のは転職はよくない、って言っているように感じてしまうな。

何か熱心に働くことが罪悪であるかのような風潮がまかり通り時代を経て、いまでは勤勉の価値はかなり下位に追いやられています。

サービス残業などを強いる経営者が多いから、こういう風潮になっているのではないか?

求めたものだけが手に入るという人生の法則

ただし願望を成就につなげるためには、並みにおもたのではダメです。「すさまじく思う」ことが大切。漠然と「そうできればいいな」と思う生半可なレベルで半あく、強烈な願望として、寝ても覚めても四六時中そのことを思い続け、考え抜く。頭のてっぺんからつま先まで全身をその思いでいっぱいにして、切れば血の代わりに「思い」が流れる。それほどまでひたむきに、強く、一筋に思うこと。そのことが、物事を成就させる原動力となるのです。

思い過ぎて疲れてしまわないのだろうか。

そのとき私は、「手のきれるようなものをつくれ」といいました。あまりにすばらしく、あまりに完璧なため、手がふれたら切れてしまいそうな、それほど非のうちどころがない、完全無欠のものを目指すべきだ。

ただ、完璧をめざしちゃうと、いつまでもサービス開始できない、という例はよく見てきた。

稲盛さんが、人生で出合う事柄はみんな自分の心が引き寄せたもの、というのを学んだのが以下の本。

谷口 雅春 (著)

楽観と悲観

構想そのものは大胆すぎるくらいの「楽観論」に基づいて、その発想の翼を拾えるべきであり、また周囲にも、アイデアの飛躍を後押ししてくれるような楽観論者を集めておくのがいいのです。

その構想を具体的に計画に移すときには、打って変わって悲観論を基盤にして、あらゆるリスクを想定し、慎重かつ最新の注意を払って厳密にプランを練っていかなくてはなりません。

その計画をいざ実行する段階になったら、再び楽観論に従って、」思い切って行動にとりかかるようにうする。すなわち、「楽観的に構想し、悲観的に計画し、楽観的に実行する」ことが物事を成就させ、思いを現実に変えるのに必要なのです。

努力の積み重ねれば平凡は非凡に変わる

目はいくら高いところを見ていても、足は地面を踏むことしかできません。

「こんなことを毎日繰り返していて、世界一になるのはいったい、いつの日のことか」
夢と現実の大きな落差に打ちのめされることもしばしばありました。けれども、結局のところ、人生とはその「今日一日」の積み重ね、「いま」の連続にほかなりません。
いまこの一秒の集積が一日となり、その一日の積み重ねが一週間、一ヶ月、一年となって、気がついたら、あれほど高く、手の届かないように見えた山頂に立っていた ー というのが、私たちの人生のありようなのです。

しかし、そうして今日一日をないがしろにせず、懸命、真剣に生きていけば、明日は自然に見えてきます。その明日をまた懸命に生きれば一週間が見えてくる。その一週間を懸命に生きれば一か月が見えてくる・・・つまり、ことさら先をみようとしなくても、いまという瞬間瞬間に全力を傾注していきることによって、そのとき見えなかった未来の姿がやがて自然に見えるようになってくるものです。

この辺りの考えば、松下幸之助さんの「道」や「若葉の峠」といった考え方に似ている。

私は長期の経営計画というものを立てたことがありません。もちろん、経営管理に基づいた長期の経営戦略などの必要性や重要性は、承知しているつもりです。しかし、今日を生きることなしに、明日はやってきません。明日もわからないのに、五年先、十年先のことがはたして見通せるでしょうか。

ただ、他のところにはプロセスを幾度もシミュレーションする、と書いているので、矛盾している気もする。

継続が大切だといっても、それが「同じことを繰り返す」ことであってはなりません。継続と反復は違います。昨日と同じことを漫然と繰り返すのではなく、今日よりは明日、明日よりは明後日と、少しずつでいいから、かならず改良や改善をつけくわえていくこと。そうした「創意工夫する心」が成功へ近くスピードを加速させるのです。

現場に宿る「神の声」が聞こえているか

もうダメだと思ったときが実は始まりで、そういうときはいったん冷静な気持ちに戻って、もう一度いまいる場所から周囲を観察しなおしてみることです。

たとえばそれが製造現場なら、製品や機械、材料や道具、あるいは工程に至るまで、すべての要素を一つひとつ洗い直し、また、素直、謙虚な目ですみずみまで見直してみることが大切なのです。

これは物理的な再点検を行うとか初心に帰るということでもありますが、実はそれ以上のものです。いってみれば製品や現場に対して、あらためて目を向け、身を寄せ、心を添わせ、耳を傾ける行為です。

「有意注意」という言葉があります。意をもって意を注ぐこと。つまり目的をもって真剣に意識や神経を対象に集中させることです。たとえば音がして、反射的にパッと向く。これは無意識の生理的な反応ですkさら、いわば「無意注意」です。

中村天風さんは、「有意注意の人生でなければ意味がない。」とまで言ったそう。

夢が大きければ大きいほど、その実現までの距離は遠いものになる。しかし、それでもそれが成就したときの姿や、そこへ至るプロセスを幾度もシミュレーションし、眼前に「見える」までに濃密にイメージしていると、実現への道筋がしだいに明らかにみえてくるとともに、そこを一歩でも近くためのさまざまなヒントが、何気ない日常生活からも得られるようになっていくものです。

「思考は現実化する」や「非常識な成功法則」には、成功した段階のイメージが大事なように書かれていたが、ここではプロセスも重要と書かれているな。

りんごの木が落ちるのを見た人はたくさんいますが、そこから万有引力の存在を見出したのは、ニュートンだけなのです。

りんごの落下のような当たり前なことに意味を見いだせるようになる、ということか。

本田宗一郎さんの言葉、

みなさんは、いったいここへ何しにきたのか。経営の勉強をしにきたらしいが、そんなことをするひまがあるなら、一刻も早く会社へ帰って仕事をしなさい。温泉に入って、飲み食いしながら経営が学べるわけがない。それが証拠に、私は誰からも経営について教わっていない。そんな男でも会社が経営できるのだから、やることは一つ。さっと会社にもどって仕事に励みなさい。

と紹介している。

考え方

福沢諭吉の言葉として

思想の深遠なること哲学者のごとく、心術の高尚正直なるは元禄の武士のごとくにして、これに加うるに小俗吏の才をもってし、さらにこれに加うるに土百姓の身体をもってして、初めて実業社会の大人たるべし

と引用している。

実業の社会で、立派な人物たりうるための必要条件をーほぼその優先順位に従ってー述べた言葉です。すなわち哲学者のような深い思考、武士のような清廉な心、小役人が持ち合わせるぐらいの才知、お百姓のような頑健な体。これらがそろって初めて、社会に役立つ「大人」たることができるというのです。

能力よりも考え方というが、「深い思考」というのは「考え方」よりも「能力」にあたる気がする。

また、浅い考えの人は成功できないように読めてしまった。そのわりには、哲学者のように思考を深める方法はそこまでこの本には書かれていない気がする。

「好き」であればこそ「燃える」人間になれる

最初は多少無理をしてでもいいから、まず「自分はすばらしい仕事をしているのだ」「なんと恵まれた職業についているのだろう」と心の中で繰り返し自分に言い聞かせてみる。すると仕事に対する味方もおのずと変わってくるものです。

視点を変える

いっけん複雑に見える現象も、単純な構造の投影にすぎないことが多い。そこで視点を変えて、あるいは視点の次元を一つ上げて問題を見つめ直したとき、その答えが実に明快に導きだされてきたわけです。

リーダーには才よりも徳が求められる

大手企業のトップ、幹部、官僚、みんな人並みすぐれた能力に恵まれた人たちばかりです。それなのに、なぜ不祥事や汚職が後を絶たないのか。それは、才を私物化してしまたからにほかなりません。自分に備わる能力を天からの借り物ではなく私有物と考えて、公の利でなく、私利私欲のために発揮したからなのです。

わが敬愛する西郷隆盛も、「徳高き者には高き位を、功績多き者には報奨を」と述べています。つまり功績にはお金で報いればいい、人格の高潔な者こそ高い地位に据えよといっているのです。

心を磨くための六つの精進

  1. 誰にも負けない努力をする
  2. 謙虚にして驕らず
  3. 反省ある日々を送る
  4. 生きていることに感謝する
  5. 善行、利他行を積む
  6. 感性的な悩みをしない

どんなときも「ありがとう」といえる準備をしておく

稲盛さんは子供のころ、隠れ念仏のお坊さんに

これから毎日、「なんまん、なんまん、ありがとう」といって仏さんに感謝しなさい。生きている間、それだけすればよろしい

と言われたとのこと。

変わらず感謝の念を忘れないということは人間にとって至難の業です。

よかったらよかったで、それを当たり前だと思う。それどころか「もっと、もっと」と欲張るのが人間というものなのです。

したがって、必要なのは「何があっても感謝の念をもつ」のだと理性にインプットしてしまうことです。感謝の気持ちがわき上がってこなくても、とにかく感謝の思いを自分に課す、つまり「ありがとう」といえる心を、いつもスタンバイさせておくことが大切なのです。

感謝の心が幸福の呼び水なら、素直な心は進歩の親

素直とは、右を向けといったらただ右を向く、そういう従順さのことではありません。

素直な心とは、自らの至らなさを認め、そこから惜しまず努力する謙虚な姿勢のことです。

三毒をいかに断ち切るか

欲望、愚痴、怒りを三毒という。

したがって大事なのは、できるだけ「欲を離れる」ことです。三毒を完全に消すことはできなくても、それを自らコントロールして抑制するよう努めること。この方法には近道はありません。これまで述べてきた誠実や感謝や反省といった「平易な勤行」を平時から地道に積み重ねていく。あるいは、物事を理性で判断する週間を日頃から自分に課すことなどが肝要です。

瞬間的に判断を下したことは、おおむね本能から(つまり欲望から)でてきた答えです。

「その思いには、おのれの欲がはたらいていないか、私心がまじっていないか」と自問することが大切なのです。そうやって結論を出す前に、「理性のワンクッション」を入れると、欲に基づいた判断ではなく、理性に基づく判断に近くことができる。

一方で直感が大事だという人もいう。稲盛さんも素直が大事というが、直感に素直に従うというのは大事ではないのか。

利他の思いによって、初めて煩悩の毒が消え、欲の濁りがぬぐわれた「美しい心」があらわになって、きれいな願望が描けるようになるのです。

利他というが本当に誰かのためになるかをどう見極めるのか。

入社して間もない大卒の新入社員たちが「もっとましな会社かと思っていたら、福利厚生もしっかりしていないし、待遇もよくない」などと文句をいってきたからです。

してもらうのではなく、自分でつくり上げるのだ」と叱りつけました。

これを経営者がいうのはどうかと思う。自分は福利厚生を社員に「与えていないじゃん、もらってばかりなのは誰よ」というツッコミを受ける。社員はあくまで社員であって経営者ではない。ブラック企業につながる危険があるのでは、と思ってしまった。

ある老師の言葉として、

たしかにあの世には地獄もあれば、極楽もある。しかし、両者には想像しているほどの違いがあるわけではなく、外見上はまったく同じような場所だ。ただ一つ違っているのは、そこにいる人たちの心なのだ。

と紹介している。

自分よりも先に他人によかれと考える。

例えば恋愛などで、他人に「お先にどうぞ」みたいにやっていて、うまくいくのか疑問。

利他にビジネスの原点がある

初期の資本主義の担い手は敬虔なプロテスタントだったわけで、マックス・ウェーバーによれば、彼らはキリストが教える隣人愛を貫くために厳しい倫理規範を守り、労働を尊びながら、産業活動で得た利益は社会の発展のために活かすということをモットーとしていたといいます。

同様のことを、わが国でも江戸中期の思想家・石田梅岩が主張しています。

「商人の売利は士の禄に同じ」と述べ、商人が利を得ることは武士が禄をはみのと同じ政党な行為であり、決して恥ずべきではない

「利を求むるに道あり」という言葉がありますが、利潤追求は決して罪悪ではない。ただし、その方法は人の道に沿ったものではなくてはならない。どんなことをしても儲かればいいというのではく、利を得るにも人間tおして正しい道を踏まなくてはならないと、商いにおける倫理観の大切さを説いています。

「まことの商人は、先も立ち、われも立つことを思うなり」ーこれも梅岩の言葉ですが、

利他に徹すれば物事を見る視野も広がる

ただしきをつけなくてはならないのは、利己と利他はいつも裏腹の関係にあることです。つまりちいさな単位における利他も、より大きな単位からみると利己に転じてしまう。

したがって、そうした低いレベルの利他にとどまらないためには、より広い視点から物事を見る目を養い、大きな単位で自分の行いを相対化してみることが大切になってきます。

すると、おのずと広い視野を持つことができ、周囲のさまざまな事象についても目配りができるようになってくる。

広いレベルの利他が、狭いレベルの仲間や家族を傷つけてしまうようなことにはならないの?例えば、家庭を顧みないサラリーマンとか。

因果応報の法則

高められた善き心というものが、善き人生をもたらす要因になるからにほかなりません。

人生が運命通りにいかないのは、因果律の持つ力がそこに働くからです。しかし一方で、善行がかならずしもすぐに善果につながらないのは、そこに運命が干渉してくるからなのです。

ここで大事なのは、因果応報の法則のほうが運命よりも若干強いということです。

因果応報の法則というものが見えづらく、それゆえに容易に信じることができないのは、物事を短いスパンでしかとらえていないからです。ある思いや行いが結果として表れてくるには、やはりそれ相応の時間がかかり、二年や三年といった短い単位では結果は出にくいものなのです。しかし、それも二十年、三十年といった長い単位でみれば、きちんと因果の帳尻は合っているものです。

「善を為すもその益を見ざるは、草裡の東瓜のごとし」と中国民代の「菜根譚」にあります。善行をしても、その報いが現れないのは、草むらの中の瓜のようなものである。それは人の目には見えなくても、おのずと立派に成長しているものなのです。

つまり宇宙には、一瞬たりとも停滞することなく、すべてのものを生成発展させてやまない意志と力、もしくは気やエネルギーのようなものが存在する。しかもそれは「善意」によるものであり、人間をはじめとする生物から無生物に至るまで、いっさいを「善き方向」へ向かわせようとしている。

物乞いに何かあげることは善き方向なのだろうか?物乞いを余計に自立できなくしてしまうのではないだろうか。

不完全でもいい、精進を重ねることこそが尊い

悟りの前、木を伐り、水を運んでいた。悟りの後、木を伐り、水を運んでいる

真に素晴らしい人間は「無名の野」にいることも、あらためて胸に刻むことができました。

神や仏は、あるいは宇宙の意志は、何事かをなした人を愛するのではなありません。何事かをなそうと努める人を愛するのです。

つまり心を高めようとする思いや、その行いの過程こそが尊く、それによって心は磨かれているのです。

完全などありえない、完全を諦めるからこそ謙虚になれるということか。完全になったと思っている状態というのが傲慢ということか。

災難があったら「業」が消えたと喜びなさい

西方擔雪老師の言葉として、

災難にあったら、落ち込むのではなくて喜ばなくてはいかんのです。災難によって、いままで魂についていた業が消えていくのです。それぐらいの災難で業が消えるのですから、稲盛さん、お祝いをしなくてはいけません。

と紹介している。

存在が花をしている

イスラム学・東洋哲学の井筒俊彦さんの言葉として、

人間の本質を解き明かそうと瞑想をしていくと、精妙で純粋な限りなく透明感のある意識に近づいていき、自分自身が存在するという意識ははっきりとあるが、それ以外の五感はすべてなくなり、最後には「存在」としかいいようのない意識状態になる。それと同時に、森羅万象すべてのものが、存在としかいいようのないものから成り立っていると意識できるようになる。

これを受けて、心理学者の河合隼雄さんは、花に対して

あなたという存在は花を演じておられるのですか。私という存在は河合を演じているのですよ

といったという。

存在がたまたま「私」というものを演じているので、「私」に執着する必要がない、ということを言いたいのかもしれない。でも、この存在は一生「私」であり、「私」から離れられない。なので、みんな「私」に執着するのは仕方がないのではないかと思う。

最後に感想

利他、素直、感謝、反省などの考え方は知っていたが、この本で最も気づきになったのは、「不完全でもいい、精進を重ねることこそが尊い」ということです。

完全な哲学、考え方を持っていないとなにも始まらない、という完璧主義が自分にはありました。

なので、とにかく勉強で、仕事をそっちのけで勉強してしまうところがあった。

でも、それでは一向に仕事は進まない。不完全でもいいので、仕事をすることが大事なのでは、と気づけた。