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“嫌われる勇気”の要約と感想!大量の矛盾点との向き合い方

何度も読んでいる「嫌われる勇気」の要約と感想です。最近人付き合いで困ったことがあり、ヒントが得られればと思い、しっかり理解するために記事にします。

もくじ

要約

青年と哲学者(哲人)の2人の会話形式で進んでいく。そのため、読みやすく、さくさく読み進められるが、構造的な記述になっていないし、各概念のつながりが明示されていないことも多いので、わかったようでよくわかっていない、という状態になりやすい。なので、この要約では、各概念の構造的な関係を意識して記述していきたい。概念間の明示されていないつながりは、吹き出し部分で私の推測として記述する。引用箇所に示したNoはKindle版での位置Noのこと。

原因論ではなく目的論

ある青年が、「人は変われる、世界はシンプルである、誰もが幸福になれる」と提唱している哲人に議論を挑むところから始まる。

人は変われないと思っている人は、目的論ではなく原因論に立脚している。例えば、引きこもりの人は「外に出ない」という目的があって、その目的を達成する手段として不安や恐怖といった感情をこしらえいてる。また、その目的を達成する手段としてトラウマなどの過去の経験を持ち出す。

人は変われる

「大切なのはなにが与えられているかではなく、あたえられたものをどう使うかである」とアドラーは言う。なので「所有の心理学」ではなく、「使用の心理学」と呼ばれる。

アドラー心理学では、性格や気質を「ライフスタイル」というが、人は自らのライフスタイルを自分で選んでいて、変われないと思っている人は自分のライフスタイルを変えないでおこうという決断を常にしているということ。

たい
たい

なぜ所有の心理学だと人は変われなくて、使用の心理学だと人は変われるのか。前者は与えられたものが全て。自分に何の選択の余地がない。選択できないのだから、一度与えられたら変わりようもない。

例えば、あなたはある軍隊の一人の兵隊だとする。しかし、その軍隊は武器不足で武器が寄せ集めしかなく、統一していない。ある者は機関銃、ある者は拳銃、ある者は刀が与えられたが、あなたはなんと短いナイフだけ。

この時点で「所有の心理学」で考える人だと、「もうダメだ。ナイフ一本でこの戦争で活躍できるはずがない。」という発想になる。しかし、「使用の心理学」で考える人だと、「ナイフは夜襲の接近戦だと一番使えるぞ。」だったり、「ナイフで調理することで他の兵隊の食事を作ってあげられる。」と考えられる。なので、人は変わることができる。全く活躍できないと思っていたが、実は十分に活躍できる、ということになる。

「選択の余地」という表現をしたが、最初「工夫の余地」もあるかな、と思った。でも、ここは「自分で選ぶ」ということに一番焦点を当てるべきなので、「工夫の余地」は言及しなくてもいいかな、と思う。もちろん、「工夫の余地」はあるのだが、工夫は頭を使うことだ。でも、ここで言いたいのは頭を使わなくたって、頭が悪くたって、自分で選べるんだっていうことだと思う。

ちなみに、与えられたものをどう使うかという「使用の心理学」が、「ライフスタイル」を選ぶということとどうつながるのかよくわからない。与えられたものの使い方を選ぶ、ということがライフスタイルを選ぶということなのかな?

その人が何を持っているかはどうあれ、性格や気質というものは自由に決められるってことか。「使い方」イコール「ライフスタイル(性格や気質)」っていう解釈はできないかな。その方がすっきりできる。

以下のように、ライフスタイルを「世界や自分への意味づけ」としている箇所もあり、これは「使い方」に近い気がする。

世界や自分への意味づけ(ライフスタイル) を変えれば、世界との関わり方、そして行動までもが変わらざるをえなくなります。

(位置No 667)

また、後半に語られる「人生の意味」もほとんどライフスタイルと同列に語られる。

「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」 と。

(No.3568)

ここまで来ると、原因論と目的論で説明される「目的」も自分で選べるということなので、同じ意味と言えると思える。

なので、

「与えられたものの使い方」=「性格や気質」=ライフスタイル=「世界や自分への意味づけ」=「人生の意味」=「目的」

と言えそうだ。

ただ、一般的な性格や気質って、「無意識な反応」を意味することが大きいと思う。例えば、性格を表現する時、「あの人は慎重だ」とか「あの人は大雑把だ」とか。人の性格って、色んな側面があるので、その全てを選びようなくないかな。と思う。自分でも認識できないものも多いし。

与えられたものの使い方って、人生をどう生きるか、など、もう少し大まかな方向性しか関わっていなくて、性格はもっと詳細なものだから、選べるのかは疑問。なので、ライフスタイルを「性格や気質」って言ってしまうのは疑問。

可能性のなかに生きる

「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることはできない。変わらない自分への言い訳としてそういうことを言う。

「もしも赤面症が治ったらわたしだって」「合格すれば人生がバラ色になる」「転職すればすべてうまくいく」というのは、全て今ライフスタイルを変えないための言い訳である。

「こんな短所だらけの自分でなければ」というのは、対人関係で傷つかないように、最初から誰とも関わりを持たないための言い訳。

これらの例を見ればわかるように、アドラーは「人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである」と主張する。

たい
たい

「合格すれば」や「転職すれば」の合格や転職は、与えらたものというより、自分で得るもののように思えるので、赤面症や短所だらけの自分とは違うのかな、と感じた。でも、努力でそのうち持てるものでも、「今」持っていないものは「与えられていない」と考えるのがアドラー心理学ということか。

対人関係から生まれる劣等感

私たちの悩みは劣等感から生じる。つまり他者との比較(対人関係)から生まれる。ただ、その劣等感もあくまで主観的なもの。例えば、平均に比べて身長が低いという劣等感がある場合、低身長が人を安心させると効果があるととらえれば長所となり、劣等感はなくなる。

劣等感はドイツ語だと「価値」が「より少ない」「感覚」という意味。

そもそも「価値」とは、単なる紙に印刷された紙幣を例にとればわかるように、社会的な文脈の上で成立しているもの。

たい
たい

前パートからのつながりを考えると、「悩み」=「劣等感」ということだろう。劣等感のもととなる「価値」に関して、ここでは二段階の不確定性の存在があると言っていると感じた。

まず、一段階目は、価値は絶対(※)的なものではなく、社会的な文脈の上で成立する、という点。(※本文では「客観」と言う言葉を使っているが「絶対」の方が言葉として合っていると思う。「客観」というのは自分以外の複数の視点があれば成立するはずなので「社会的な文脈」というのは十分「客観」と呼べるから。)

そして、二段階目は、社会的な文脈で「価値」が成立しても、主観的な解釈しだいで動かすことができる。

つまり、価値とは全く確定していないふわっとしているもの、ということ。

世の中の全員がこれを完全に理解していれば悩み(劣等感)で苦しむ人はいない。でも、多くの人が苦しんでいるというのは、おそらく二段階目を理解していないからではないかと思う。一段階目は普通に生きていてもある程度賢ければ理解できる。価値っていうのは絶対的ではなくて社会が決めているんだなー、時代や国によっても変わるしなー、くらいには思える。でも、二段階目はどこかでアドラー的な考えを学んでいないと理解していない人が多いと思う。

前パートの「可能性のなかに生きる」と劣等感がどうつながるかがわかりづらい。価値というのが自分ではコントロールできないと思っている人は、「絶対的な価値」に直面せざるを得なくなり、多くの劣等感にさいなまれるのを怖れて、対人関係に踏み出さない。そのような人を「可能性のなかに生きる」と言っているのかもしれない。

優越性の追求と劣等コンプレックス

劣等感は誰もが持っているし、あったとしても悪いものではないが、いつまでもその状態を我慢することはできないほど重いもの。それを取り除くために向上しようとすることを「優越性の追求」という。これは健康で正常な努力と成長への刺激である。

しかし、自らの劣等感をある種の言い訳に使いはじめた状態のことを「劣等コンプレックス」という。「わたしは器量が悪いから、結婚できない」というように「Aであるから、Bできないという論理」を振りかざした場合、劣等感を超えて劣等コンプレックスと言える。この論理を「見かけの因果律」という。本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるように自らを説明し、納得させてしまう、ということ。

「Aであるから、Bできないという論理」を言葉や態度に出す人は「Aさえなければ、わたしは有能であり価値があるのだ」と暗示することになり、優越コンプレックスになる。ブランド品や権威を過剰にアピールしたり、実績を自慢したり、不幸を自慢するのも優越コンプレックスになる。

劣等感を健全な努力と成長で補償しようという勇気が持てない人が、劣等コンプレックスや優越コンプレックスに踏み込んでしまうという意味で、両コンプレックスは地続きである。

日本で一般的に使われる「学歴コンプレックス」などコンプレックスは劣等感の意味で使われているが、これは誤用。

優越性の追求というと、他者を蹴落としてまで上に昇ろうというように聞こえるが、そうではなく、同じ平らな地点でそれぞれの道を一歩前に進む意思である。誰とも比較する必要はなく、理想の自分と比較して一歩前に行くことだ。

たい
たい

劣等感は対人関係のなかで生まれ、哲人も他者と身長を比べることで劣等感を感じたと言っているのに、以下のように言っているのがよくわからない。

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

(位置No.1118)

劣等感にも2段階あるってことかな?健全な劣等感と不健全な劣等感というように。最初は他人との比較から不健全な劣等感から入って、優越性の追求をする段階だと、「理想の自分」との比較と捉えて前に進んでいくということか。

劣等感の解消方法として、哲人は低身長について主観的な解釈を変えるという方法をとった。優越性の追求をしたわけではない。なので、劣等感の解消方法も2段階あると考えたほうがいいかも。

最初に他者との比較で不健全な劣等感を感じる。その内容が、

  • 身長のようなどうにもならないもの⇒主観的な解釈を変える
  • どうにかなるようなもの⇒「理想の自分」との比較ととらえて健全な劣等感に変えて優越性の追求に踏み出す

ということなのかなと理解した。

ただ、どうにかなるのかどうか、どうにもならないのか、の判別はどうするのか?身長だって、昨今では一度脚の骨を折って伸ばすという手術である程度伸ばせるという医療技術があるようだ。それはやりすぎととらえるか健全な努力ととらえるかは難しい。

それは以下のニーバーの祈りにある知恵が必要になるということか。

神よ、願わくばわたしに、変えることのできない物事を受け入れる落ち着きと、変えることのできる物事を変える勇気と、その違いを常に見分ける知恵とをさずけたまえ

(位置No.2900)

知恵って言われてもよくわからないなー、と思ったけど、要は自分から見て滑稽かどうかかな、と思う。身長を伸ばすために、四六時中祈ったり、変な業者に高額な依頼をしたり、滑稽なほどの努力をしているのは、もうそれは変えることができないもの、と捉えるべきってことかもしれない。

人生は他者との競争ではない

理想の自分との比較ではなく、他者と比較してしまうと、対人関係の軸に「競争」があることになる。そうなると、人は対人関係の悩みから逃れられず、不幸から逃れることができない。他者全般のことを、ひいては世界のことを「敵」だと見なすようになる。

逆に競争を軸に考えなかった場合は、人々は「仲間」と捉えられるようになり、他者の幸福を「わたしの負け」と捉えず、心から祝福できるようになる。

他者に面罵されたり、相手の言動によって本気で腹が立った時は相手が「権力争い」を挑んできている。その場合、いかなる挑発に乗ってはいけない。「怒りという道具」に頼らず、怒り以外の有用なコミュニケーションツール、言葉の力を信じて使う。

自分の方が正しいと確信した瞬間、すでに権力争いに足を踏み入れている。正しいと思うのなら他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき。しかし、多くの人は権力争いに突入してしまう。

たい
たい

自分が正しいと思っても、権力争いから降りる、というのはわかるのだけど、誤りを認めたり、謝罪の言葉を述べることをすすめているように読める。正しいと思っているのに自分が誤っていたというのは逆に不誠実ではないか。

自分が正しさを主張したい時、それが誠実さからくるのか、権力争いからくるのかを見極める必要があるということか。

対人関係は避けられない

他者を敵だと見なさず、仲間だと思うためには、「幸せになる勇気」を持って「人生のタスク」に逃げずに向き合うこと。

人はひとりでいきていくことなど原理的なありえない。なので対人関係が重要になる。そのために、

行動面の目標が

  1. 自立すること
  2. 社会と調和して暮らせること

行動を支える心理面の目標が

  1. わたしには能力がある、という意識
  2. 人々はわたしの仲間である、という意識

これらの目標は以下3つの「人生のタスク」と向き合うことで達成できる。

  1. 仕事のタスク
  2. 交友のタスク
  3. 愛のタスク

人は人生のタスクを回避するために、他者の欠点を探し「敵」と思うことで対人関係から逃げる。これを「人生の嘘」という。誰かを嫌っている場合、その人を嫌うという目的が先にあって、その目的にかなった欠点をあとから見つけ出している。

たい
たい

対人関係を重視する理由の説明がちょっと少ない。「避けられない」くらいしか書いていない。金が有り余っていて、人と合わなくても暮らせるケースもなくはないじゃないか。

あと、3つの人生のタスクの説明において、対人関係の距離と深さを強調しているが、これがなんのことかよくわからない。3つの違いは、距離と深さの違いということか?

距離が遠くて、深さが浅い順に

  1. 仕事のタスク
  2. 交友のタスク
  3. 愛のタスク

 

ということか。

そして、以下のように書いているので、「対人関係」=「人生のタスク」といってもいいのかもしれない。

ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスクです。 この「直面せざるをえない」という意味において、まさしく「タスク」なのです。

(位置No.1387)

人生のタスクの必要性として、他者を敵ではなく仲間とみなすため、というのと、社会的な存在として生きて行くには直面せざるを得ない、という、2点出てきているが、どちらなのか?他者を敵とみなしてしまうと社会的な存在として生きていけない、ということか?でも青年はまがりなりにもこれまで生きてこれているじゃん。

勇気の心理学であり使用の心理学である

人生の嘘にすがり、人生のタスクを回避するのは、道徳的に糾弾されるべきではなく、勇気の問題である。人間は原因論的なトラウマに翻弄されるほど脆弱な存在ではなく、目的論の立場にたって、自らの人生、ライフスタイルを自分の手で選ぶことができる。その勇気が必要。それが幸せになる勇気。

アドラー心理学は「勇気の心理学」であり、「使用の心理学」である。つまり、「与えられたものの使い方(ライフスタイル)」を選ぶことができる、という勇気を持とう、ということ。

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課題の分離をして自由を得る

その勇気を得るためには自由が必要になる。その具体的な方法として「課題の分離」がある。自分の課題と他者の課題を分離するということだ。誰の課題か見分けるには、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」を考える。

したがって、承認欲求は否定される。その選択について他者がどのような評価を下すのか。これは他者の課題であって、自分にはどうにもできない話だから。

しかし、他者に嫌われたくないと思うことは、自然な欲望であり衝動で、近代哲学の巨人、カントはこうした欲望を「傾向性」と呼んだ。本当の自由とは、このような欲望のおもむくままに、坂道を転がる石のように生きるのではなく、転がる自分を下から押し上げていくような態度である。

たい
たい

自然な欲望なのに、それを否定するのが当然かのように説明している哲人は意地悪だなと思った。

アドラーは自然な欲望を認めない、ということなのか。自然な欲望を肯定する考え方が溢れている現代では異質だ。

自然な欲望といえば、食欲、睡眠欲、性欲などがある。食欲や睡眠欲は満たされて当然であり、満たされないと死んでしまう。性欲は満たされなくても死にはしない。なので、承認欲求は性欲に近いと思った。

性欲は満たされることもあるが、満たされないこともある。相手がある話だからだ。承認欲求も同じで、満たされることもあれば、満たされないこともあるということか。性欲や承認欲求を、食欲や睡眠欲と同じように、満たされて当然と思っていると色々問題が発生する。満たされなくてもいいやー、くらいに思っていなければならない。

ただ、哲人は承認欲求を認めないどころか否定までしている。もし承認されたとしても喜ばないほうがいいということだと思う。性欲の場合、もし性欲を満たす機会があった時に、喜ばないほうがいいということになるのかな。それはちょっと不自然すぎる気もする。なので私のこの喩えは無理があるか。しかし、性欲も否定してしまったほうがアドラー的な自由には近づく気もする。

嫌われる可能性があっても課題を分離することで対人関係から自由になれる。なので、「自由とは、他者から嫌われることである」と哲人は言う。誰かに嫌われているということは、自由に生きている証だ。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。これが本をタイトルにもなっている「嫌われる勇気」。「幸せになる勇気」には「嫌われる勇気」も含まれる。

たい
たい

哲人はアレクサンドロス大王のゴルディオスの結び目の逸話を課題の分離になぞらえる。

このとき彼は、「運命とは、伝説によってもたらされるものではなく、自らの剣によって切り 拓くものである」と語ったといいます。

(中略)

このように、複雑に絡みあった結び目、つまり対人関係における「しがらみ」は、もはや従来的な方法で解きほぐすのではなく、なにかまったく新しい手段で断ち切らなければなりません。

(位置No.1908)

なぞらえるだけで、結局どういう意味なのか説明しないのが哲人の不親切なところだなぁと思いましたが、ここから私は課題の分離をする時の心得を考えた。2通りの解釈ができると思います。一つは、「新しい手段」ということなので、クリエイティブな方法を考える必要があるということ。もう一つは、丁寧に結び目をほどくのではなく、切ってしまうということなので、ある程度強引に断ち切ってしまうということ。

前者だとしたらもう少し説明が必要だと思うので、後者なのかなと思った。つまり、課題の分離はエイヤーっとある意味無理やりやる必要があるってことだと思う。これって無駄に摩擦を生まないかな。他者の期待に関係なく自分の方針で行動するのはわかるけど、わざわざその時に人と軋轢を生む必要があるのかな。ただ、軋轢を生まないためのケアが負担になって自分の方針で動けないくらいなら、そんなケアをする必要ない!ってことなのかな。

課題の分離から出発し共同体感覚がゴール

課題の分離は対人関係の出発点で、「共同体感覚」が対人関係のゴールとなる。共同体感覚とは、他者を仲間だとみなし、そこに「自分の居場所がある」「ここにいてもいいのだ」と感じられること。

課題の分離は「人生のタスク」、つまり対人関係に向きあうための勇気と自由を生み出すためのものという話の流れだったが、ゴールは「共同体感覚」だと説明される。では、人生のタスクと共同体感覚はどのような関係にあるのか。

共同体感覚は共同体に対して自らが積極的にコミットすることで得られる。「人生のタスク」に向き合うことが、すなわち積極的にコミットすることになる。「この人は私に何を与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミット。そのために自分は世界の中心にいるのではなく、共同体の一部であることを認識する必要がある。

不幸の源泉は対人関係にあるが、逆にいうと、幸福の源泉も対人関係にある。共同体感覚とは、幸福なる対人関係のあり方を考える、もっとも重要な指標。

共同体で苦しみを感じることもあるが、われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声をきけ」という原則。そうすれば共同体感覚を持ちながらも自由を選べる。

たい
たい

つまり、

課題の分離⇒人生のタスク⇒共同体感覚

の流れで達成されると理解した。

一つ疑問なのは、共同体のなかに自分のことを嫌う人や罵倒してくる人がいた場合、「ここにいてもいいのだ」と思えるだろうか。となると共同体感覚を得るには、やはり他者に好かれなければならないのではないだろうか。

もう一つ疑問なのは、共同体感覚を持つことが幸福な対人関係の指標というが、どのように幸福なのかが詳しく描かれていないこと。「わたしはここにいてもいいいんだ。」と思えることは良いことだと思うが、それが一番重要なことだろうか、と思ってしまう。居場所があることが、どれだけ素晴らしいことなのかをもっと語ってほしい。

序盤では人生のタスクは、避けられない対人関係、という説明だったが、ここからはいきなり「わたしはこの人に何を与えられるか?」を考えること、というように、与えるという概念が入ってくる。飛躍している。もう少し説明が欲しい。

横の関係と勇気づけ

課題の分離でどのように人生のタスクを乗り越え、共同体感覚に至ればいいのか、そのためには「横の関係」必要になる。「同じではないけれど対等」という意識。これによって良好な対人関係につながる。

具体的にはほめてはいけないし、しかってもいけない。これらには評価や操作が背景にあるため。そもそも劣等感とは縦の関係の中から生じてくる意識。

横の関係に基づくアプローチは「勇気づけ」と呼ぶ。人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向かう〝勇気〟がくじかれていること」が問題なのだ、と考えるのがアドラー心理学。

具体的には、「ありがとう」と感謝の言葉を伝えたり、「うれしい」と素直な喜びを伝えたり、「助かったよ」とお礼の言葉を伝える。これが横の関係に基づく勇気づけのアプローチ。

人は自分には価値があると思えたときにだけ勇気を持てる。ではどうすれば価値があると思えるのかというと、共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、 自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができる。行為のレベルではなく、存在のレベルで見て、それ自体を喜び、感謝の声をかけていくのが大事。

自己への執着を他者への関心に切り替える

共同体感覚を持つのに邪魔となる自己への執着を他者への関心に切り替えるのに必要になるのが、「自己受容」「他者信頼」「他者貢献」。

自己受容と対照的なものとして自己肯定がある。自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」と自らに暗示をかけること。これは優越コンプレックスにも結びつく発想。一方、自己受容とは、できないのだとしたら、その「できない自分」をありのままに受け入れ、できるようになるべく、前に進んで行くこと。

これは、「肯定的なあきらめ」といえる。課題の分離もそうだが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極める、「変えられるもの」に注目していく。「あきらめ」という言葉には、元来「明らかに見る」という意味があり、物事の真理をしっかり見定めることで、悲観的なことではない。

他者信頼とは、他者を信じるにあたって一切の条件をつけないこと。担保などの客観的などを必要とする信用とは違う。だまされてしまうこともあるが、自己受容ができていれば、裏切りが他者の課題であることも理解できるので、他者信頼に踏み込む勇気が持てる。ただ、道徳的価値観に基づいて信頼するのではなく、横の関係を築くために信頼する。なので、その人と関係を築きたくないと思えば断ち切ってしまっても構わない。これは自分の課題。

自己受容ができて他者信頼ができる。そうすると、他者を仲間だと思える。そうすると、「ここにいてもいいんだ」という所属感を得ることにつながっていく。ただ、共同体感覚を得るためには「他者貢献」も必要になる。

他者貢献とは、仲間である他者に対して、なんらかの働きかけをしてくこと。ただ、自己犠牲ではない。他者のために自分の人生を犠牲にしてしまう人は「社会に過度に適応した人」。むしろ、他者貢献とは「わたし」の価値を実感するためになされるもの。偽善のように聞こえるが、他者を「敵」だと見なしたままおこなう貢献とは違い、「仲間」だとみなしておこなう貢献は、偽善にはならない。

人生の調和を欠いた生き方

神経症的なライフスタイルを持った人は、なにかと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使う。「みんな自分を嫌っている」とか「いつも自分だけが損をする」とか「すべて間違っている」というように。もし、これら一般化の言葉を口癖としているようなら、注意が必要。これを「人生の調和」を欠いた生き方という。

吃音の人、ワーカホリックの人などはこれに当たる。吃音の人は、言葉を詰まらせたことを笑う少数の人だけに注目して「みんなわたしを笑っている」と考えてします。

仕事は会社だけでなく、家庭、地域、趣味など色々な仕事があるのに、会社の仕事だけしか考えない人がワーカホリック。こうした人は、仕事を口実に他の責任を回避していて、これは人生の嘘だ。そして、「行為のレベル」でしか自分の価値を認めることができていない。

自分を「行為のレベル」で受け入れるのか、それとも「存在のレベル」で受け入れるか。これはまさに「幸せになる勇気」に関わってくる問題。

たい
たい

明言はしていないが、この本ではどちらかでいうと「存在のレベル」を重視しているように感じる。だから、「いまこの瞬間から幸福になることができる」という発言が出てくるんだと思う。また、行為のレベルにとらわれていて家庭を顧みない青年の父を批判的に見ているのもそう。

幸福とは貢献感である

他者貢献をすることによって「わたしは誰かの役に立っている」という主観的な感覚が「貢献感」。ほんとうに貢献できたかどうかは原理的にわかりえない。つまり、目に見える貢献ができなくてもいい。

つまり、幸福とは貢献感である。

ただ、承認欲求を通じて得られた貢献感には自由がない。もし本当に貢献感が持てているのなら他者からの承認がなくても「わたしは誰かの役に立っている」と実感できる。

たい
たい

貢献感は主観的に感じられればよく、目に見える貢献でなくてもいい、行為のレベルでなく存在のレベルの貢献でいい、とのことなので、形が何もない。でも、少なくとも、対象の共同体は決める必要がるし、決めることが大事だと思う。というのは、対象を決めなければ主観的な貢献も生まれないから。

普通であることの勇気

貢献感だけが幸福なのか。歴史に名を残したり、自己実現的なことをする高邁な目標を目指すのも幸福なのではないかという疑問が湧く。

われわれは「優越性の追求」という普遍的な欲求を持っていてこれは悪いことではない。しかし、健全な努力を回避したまま、特別な存在になろうとすることは「安直な優越性の追求」と言える。「特別によくあろう」としてなれればいいが、通常それは難しいので「特別に悪くあろう」としてしまう。例えば非行に走る子供。

そもそも「特別」になる必要はない。「普通の自分」を受け入れることは、わざわざ自らの優越性を誇示する必要がないということ。それが「普通であることの勇気」。

たい
たい

安直な優越性の追求って、ちょっとトリッキーなことをして目立とうとするのもそうかもしれない。マリオカートで逆走するとか。

なぜ「普通」を避けようとするのがダメかというと、「普通」という考え方自体が、他者との比較から生まれれるからかな、と思った。他者と比較して普通かどうか、そう考えている時点で、理想の自分とではなく他者と比較してしまっているから。なので、「普通であることの勇気」は意識して普通になれといっているわけではない。普通なんて意識するな、結果的に普通になっちゃったとしてもそれは受け入れろ、ということだと思う。

人生は線ではなく点の連続

高邁なる目標を目指す人生とは、人生を登山のように考えていて、自らの生を「線」としてとらえている。これは原因論に繋がる考えで、人生の大半を「途上」としてしまう考え方。

線ではなく、人生は点の連続であり、今この瞬間をダンスするように生きる連続する刹那。「いまなしつつある」ことが、そのまま「なしてしまった」ことであるような動き、つまり、「過程そのものを、結果とみなすような動き」。

過去や未来を見ることは自らに免罪符を与えることにつながる。「いま、ここ」に強烈なスポットライトをあてていたら、過去も未来もみえなくなる。「いま、ここ」だけを真剣に生きるべき。

原因論に立つ人は、人生を大きな物語としてとらえているが、点としてとらえれば物語は必要なくなる。

たい
たい

このあたり禅やマインドフルネスで言われる「いま、ここ」に近い考え方な気がする。

人生の意味は自分で与える

人生が「いま、ここ」しかないとしたら、人生の意味とは何だろうか?アドラーは「一般的な人生の意味はない」という。しかし、その人生に意味を与えることができる。「他者に貢献するのだ」という「導きの星」さえ見失わなければ、なにをしてもいい。

アドラー的な生き方をするように「わたし」が変われば、「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしかかわりえない。「わたし」の力は計り知れないほど大きい。これは長年禁止だった人がメガネをかけた時の衝撃の似ている。不鮮明だった世界の輪郭が明らかになり、色までも鮮やかになる。他の人が協力的でないとしても、自分が始めるべき。

たい
たい

このあたりで

「人生に与える意味」=ライフスタイル

と思えるような記述がたくさんある。

私の批判的な感想&疑問

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目的論は目的の肯定ではなく目的の否定?

「原因論ではなく目的論」というがその目的はどのように決まっているのだろうか?過去に何か出来事があって目的を決めているのではないか?

そして、「目的」という言葉は、アドラーが否定する人生を登山とするような発想の言葉ではないか?ここで言いたいのは、目的なんか持っているからそうなるんだ!ということなのか。目的なんか持つな!と。悪い目的を良い目的に変えようと言っているわけではなく、目的を持つこと自体を否定しているということか。終盤で目標や計画を否定しダンスするように生きろと言っているし。

ただ、赤面症や引き込もりの例にしても、目的を捨てるには目的を認識しなければ難しいのでは?あっ、私、ふられるのが怖いから接触を避る、という目的のために赤面症になっているんだ、と認識できないと、目的捨てられないよね。その目的を認識するために何をすればいいかはこの本には書いていないんだよね。

カウンセラーを舐めすぎでは?

フロイトなどの非アドラー的なカウンセラーや精神科医を批判する記述が多いが、偏っていると思う。

あなたが風邪で高熱を出して医者に 診 てもらったとします。そして医者が「あなたが風邪をひいたのは、昨日薄着をして出かけたからです」と、風邪をひいた理由を教えてくれたとしましょう。さて、あなたはこれで満足できますか?

(No.275)

原因がわからないと、対策も出てこないのではないか?「薄着」という明確な原因がわかれば、これからは薄着をしなければ風邪をひかないということはわかる。原因がわからなければ、二度三度と同じ苦労を味合わなければならないではないか。

ところが原因論に立脚する人々、たとえば一般的なカウンセラーや精神科医は、ただ「あなたが苦しんでいるのは、過去のここに原因がある」と指摘するだけ、また「だからあなたは悪くないのだ」と 慰めるだけで終わってしまいます。

(No.281)

過去の経験から、現状の見方の歪めて見ていることを気づかせるのが現代的なカウンセリングだと思う。「だからあなたは悪くないのだ」で終わることはなく、その歪みにしっかり向かい合いましょうっていうスタンスの方が多いでしょ。

トラウマの意味付けを変えるには過去見つめる必要あるんじゃない?

以下のようにある。

アドラーはトラウマの議論を否定するなかで、こう語っています。「いかなる経験も、それ自体では成功の原因でも失敗の原因でもない。われわれは自分の経験によるショック——いわゆるトラウマ——に苦しむのではなく、経験の中から目的にかなうものを見つけ出す。 自分の経験によって決定されるのではなく、経験に与える意味によって自らを決定するのである」と。

(No.292)

経験への意味付けを間違えてしまうことをトラウマっていうんじゃないのかな?

どのような経験に、どのような意味をつけてしまっているのかを認識しないと、苦しみはなくならないのではないか?

経験への意味付けって例えば、

火を手で触ると熱い。火傷する。という経験。⇒火は手で触ってはいけないんだ、という意味付け

犬に噛まれて怪我をする⇒犬に触ってはいけないんだ、という意味付け

前者は正しい意味付けだよね。火は手で触ってはいけない。でも後者は歪んだ意味付け。犬に噛まれることは無くはないけど、正しく接していればそんなに噛まれることはない。こんな歪んだ認識だと、犬に触れると可愛くて癒されるっていうメリットを享受できなくなっちゃうよね。

カウンセラーなどに頼るときって、昔の経験のことなんか忘れていて、現在犬が怖いっていう悩みを抱えて行くことになる。そこで過去のことに向き合って、あっ、あの時犬に噛まれた経験があって、今怖いんだということに気づく。それがわかれば、常に犬が噛むわけではない、という正しい事実を知ることで、その悩みはなくなっていく。また、当時の詳細が思い出せれば、あっ、あの時、子供だった私は犬の尻尾を引っ張ったな、だから犬は怒って噛んだんだ。そりゃ怒るわ。引っ張らなければ大丈夫だ。と思える。こういう風に治療がすすんでいくのではないか。なので、過去の事実を振り返ることは必要だと思う。

こう考えてみると、トラウマだと思っていたものはトラウマではなくただの経験への意味づけだ、という意味で言えばトラウマの否定は正しいと思う。でもわざわざ、トラウマを否定する、と言わなくても、「トラウマは絶対的なものではなく経験への間違った意味付けだ」と言えばいいことではないか。

では、なぜアドラーはわざわざトラウマを否定するのか?トラウマはないっていう前提を持っていないと、患者がある経験への意味付けを変えるモチベーションをもたないからかな、と思った。間違った意味づけを当然だと思ってしまうから。

上の者が下の者に文句を言わせなくするロジックじゃない?

アドラーの思想通りに生きられれば確かにシンプルになると思う。ただ、この考え方って上の者が下の者に文句を言わせなくするのにとても好都合だと思う。例えば労働者が経営者に「もっと労働環境をよくしてくれ!」って言っても、経営者は「それはあなたの課題じゃないよね。」人の課題に口出すな、って感じで言えちゃう。

自己責任論にもつながりそうな思想です。

とある噂で、アドラー心理学を最初に日本に持ち込んだのは、保守系の思想(たぶん反共産主義的な)の組織だったと聞いたことがあります。

以下のインタビューで著者の岸見一郎氏は以下のように言っています。

「『自己責任』という言葉を他人に言うのは間違っている」『嫌われる勇気』著者に聞いた、“今ここ”を幸せに生きる方法

自分が自分の人生に責任を持つという意味であって、他の人に言ってはいけませんし、言えないのです。

他の人に言わないとしても、この思想を広めていること自体が「自分の人生に責任を持て」と不特定多数の人に言っていることになるのではないか。

哲人冷たいな。青年の気持ちに全く寄り添わない

アドラー心理学を全然知らない人は、最初は自己責任論だと感じてしまうのは当然だと思うし、青年もそういう反応をしている。

青年 先生のお話を聞いていると、「トラウマなど存在しないし、環境も関係ない。なにもかもが身から出た 錆 なのであって、お前の不幸はすべてお前のせいだ」と、これまでの自分を断罪されている気分になってくるんですよ!

哲人 いえ、断罪しているのではありません。

(No.671)

哲人のリアクションが冷たい。「そういう気持ちになるんですね。」って受け止めてあげてもいい気がする。気持ちを受け止めてあげるのさえ、他者との課題の分離ができてないってことになるの?後半の「横の関係」の部分では、「他者に関心を寄せる」ことを主張してるのに。

ゴールから説明しないからわかりづらい

後半になって、「課題の分離」が出発点となり、「共同体感覚」がゴールということが説明される。共同体感覚の説明はかなり後半になってから説明される。

なので、前半がわかりづらくなっている部分がある。青年の本当の目的を指摘するくだりで、

最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。つまり、 あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」 なのです。

(No.788)

という。これに対して青年は動揺を隠せない反応をするのだが、私だったら「うん、そうだよ。他者との関係を避けるのの何がわるいの?」って言っちゃいそう。共同体感覚がまだ説明されていなこのくだりだと、他者との関係を避けて経済的に困らないようなら別に良いじゃん、合理的じゃん、って思う人も多いと思う。

でも、アドラー心理学では共同体感覚がゴールであり、幸福の源なので、対人関係を避けるというのはよろしくないことなのでしょう。

この本はこのように重要な点を後回しにするのでわかりにくくなっているところが多いように感じた。

努力しろっていう圧が疲れる

対人関係に乗り出すと劣等感を感じることになるが、それ自体は悪いことでなく、健全な努力で補償していけばよいという。でも、現代社会で感じる劣等感は多岐に渡る。仕事、趣味、健康、家族など、無限に出てくるはずだ。いくつかであれば努力で補償することはできる。しかし、時間と体力の問題で、努力しきれない分野も多いだろう。

そんななか「忙しいから努力できない。」ってそのまま正直に言うと、アドラー信奉者からは「劣等コンプレックスだ。」と言われてしまいそう。

なので、対人関係のなかで出てきた劣等感を全てまともに取り扱うというよりは、あまり劣等感を感じないようにする鈍感力のようなもの方が大事な気がする。

アドラー心理学は人生を楽にする部分もあるが、疲れる考え方でもあると思う。

意図してやるのも優越コンプレックス?

ブランド品や権威を使うことが全て優越コンプレックスになるのかは少し疑問。例えば、一部の営業のノウハウ本なんかには、「良いスーツや時計を着て権威づけしよう。」だったり、「広告に有名人を使って売上をあげよう」など指南されていたりするし、実際に一定の効果はある。恋愛においても、地位やお金をアピールすることで、相手の気持ちをひいてうまくいく人もいる。「影響力の武器」という販売心理学の名著でも「権威」という効果を科学的に立証している。

影響力の武器|要約感想と設問の答え|売上アップ間違いなし?ロバート・B・チャルティーニの「影響力の武器」を読みました。要約と感想と巻末についている設問の私なりの答えをご紹介します。 要約 人...
ロバート・B・チャルディーニ (著), 社会行動研究会 (翻訳)

意図してそういうことをすることもアドラーは優越コンプレックスととらえているのかが疑問。

ただ、そもそもアドラーは他者貢献を提唱しているので、あまりに虚像で自分を飾って相手に誤解させて判断させるのはよろしくないのだとは思うが。

個性的なファッションは「安直な優越性の追求」か?

特別な存在になろうとする心理で思い浮かぶのが、個性的なファッションをすること。これは安直な優越性の追求になるのだろうか。この本に出てくる「安直な優越性の追求」の例を見ると、非行など本人や周囲の人に被害を及ぼす行為が該当するのかな、と思う。その点、個性的なファッションはその共同体で制限されない範囲であれば被害を及ぼすわけではないので「安直な優越性の追求」には当たらないと思う。もし、不愉快に感じる人がいるとすれば、それはそう感じた人の課題になる。

とはいえ、いくら個性的なファッションを志向しても、範囲を広げて考えてみれば同じようなファッションをしている人はいくらでもいる、ということを考えれば、唯一無二にはなれないので、結局「普通であることの勇気」は持っていた方がいい。

明らかに個性的なファッションをしている人は、他者から見れば「あー、特別な存在になりたいんだろうな」と思われるだけ。承認欲求を否定すればなんてこともない。

このように、個性を楽しむ行為というのは、アドラー心理学的にはどんな意味があるのか、と疑問に思った。「安直な優越性の追求」にも当たらないが、かといって、共同体へ貢献しているわけでもない。純粋に自分だけの楽しみだ。好きな音楽を聴いたり、趣味を楽しむことについても。貢献感ではないかもしれないが、自由意志ではある。

この本では、貢献感を幸福の源泉とするが、自由意志も重視していると思う。感情に支配されたりなどして自由意志を失うことを戒めている。では、貢献感と自由意志はどのような関係があるのだろうか。

もしかしたら、主観的な貢献感を得るためには自由意志が必須ということかもしれない。自由意志なき”貢献感”は、実は貢献感ではなく奴隷的な労働や搾取なのかもしれない。その自由意志をしっかりと確認し、盤石にするために個性、芸術、趣味を楽しむ営みが必要なのかもしれない。

他者と比較をするかを都合良く切り替えろということ?

対人関係に乗り出すと他者との比較のなかで劣等感が生まれ、それは健全なものだという。しかし、優越性の追求をするにあたり、健全な努力をする際には、他人と比較するのではなく、理想の自分と比較しよう、という。

矛盾しているな、と最初思ったが、どこかで他人と比較するかどうかを切り替えるということだと考えた。でも、そんなに都合良く切り替えられるの?と思う。どのような心理状態でこのような切り替えを行うのかもっと詳しく説明して欲しかった。

この本では他にも矛盾するようなところがり、それは全て「切り替え」を前提としているんだろうなと思っている。でもその切り替えを一貫性を持って行うのが難しいので、その心持ちを説明してほしい。

あと、対人関係のなかで劣等感が生まれる、というのと「課題の分離」という考え方は矛盾しているようにも感じる。例えば、「Aさんはあんなに稼いでいるのに私はこれしか稼いでない。健全な努力をしよう。」っていうのが劣等感で、この本では悪いものとはされていない。でも、「課題の分離」という考え方だと、どれだけ稼ぐかってのはAさんと私それぞれの別の課題。Aさんと同じくらいは稼ぎたい、って思っちゃう時点で課題の分離ができてない気がする。私の人生ではなく、Aさんの人生を生きることになる。

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2つのモードを行き来しろということか?

このような矛盾していると思われる点を、好意的に捉えて矛盾ではないとすると、モードが二つあるのかなと思った。「A.人間の自然な状態」と「B.アドラー的な心理状態」の二つ。

Aは、承認欲求については人間が自然に持つものとして「傾向性」と呼んでいるが、アドラーはこれを乗り越えろといっている。つまり、AからBになれと。

そして、劣等感が生まれる他者と比較してしまう状態もAに含まれると思う。そこで優越性の追求によって他者との比較をやめてBになれ、と言っているのだと思う。

アドラーは承認欲求については完全に否定しているが、劣等感、つまり他者との比較を完全に否定しているようには読めない。だからややこしい。Aについては完全に否定し、Bだけの状態を目指せ!って言ってくれた方が楽だ。

とはいえ、個人的にはBだけになると人間味がないように思うし、劣等感こそアドラー的な人生のモチベーションになっているようにも読める。AとBを行き来するっていうことなのかなと思う。

もう一つの考え方としては、一人の人間には常にAとBが並存していている。そして、Aは常に劣等感などの自然な感情を生み出している。「わたし」はその感情を常に野球のキャッチャーのようにキャッチして、Bに渡してあげる必要があるのかなと思った。

ここまで考えてふと思ったが、承認欲求と他人との比較って同じことなのかもしれない。自分の価値を外部の指標を使って計るという意味で。

言葉の力を信じろっていうけど

権力争いを挑んできた人には、怒りという道具に頼らず、言葉の力を信じようというが、言葉だけでやめてくれるのだろうか?「私は怒っている、悲しんでいる」など感情面を伝えないと何も伝わらないのではないか?感情面を伝えるとなると、声色、表情などにその感情をある程度のせたほうが伝わると思う。

哲人は相手がやめるかどうかは相手の課題だというかもしれないが、面罵され続けることを許容するということか。自分からその人との距離を置けということなのか。そうすると、必要があって行っている場所に行けなくなってしまうではないか。権力争いを挑まれる度に行ける場所が減ってしまう。

正しいと思っているのに謝る方が不誠実ではないか

哲人は正しいと思っても主張しないようすすめる。

あなたが正しいと思うのなら、他の人がどんな意見であれ、そこで完結するべき話です。

(No.1334)

また、誤りを認めたり、謝罪をすすめる。

でも、正しいと思っているのに、誤りを認めるのは、不誠実だし、のちのち余計な誤解を引き起こすのではないか。

そもそも「嫌われる勇気」という承認欲求を否定する考えと矛盾しているように思う。

善悪や道徳の問題ではないっていうけどほぼ善悪語ってるじゃん

青年が糾弾されているような気持ちになるというと、アドラーは善悪で語っていないという。

アドラーは、人生のタスクや人生の嘘について、善悪で語ろうとはしていません。いまわれわれが語るべきは、 善悪でも道徳でもなく、〝勇気〟の問題です。

(No.1526)

善悪や道徳で語らないということは、つまり選択肢がいくつかあればそれは対等でどれを選んでもいいってことだと思う。

でもどう読んでもある生き方は悪である生き方は善と見ているようにしか見えない。人生の「嘘」や人生のタスクの「回避」や「勇気」という言葉に、もはや価値観が出ちゃってる。

道徳や善悪と勇気は違うというかもしれないが、どう考えても勇気が無いことは悪だし、勇気があることは善だ。哲人も以下のように、アドラーが価値について語っていることは否定していない。

心理学は科学であるべきなのに、アドラーは「価値」の問題を語り始めた。

(No.2814)

以下から、善悪と道徳は違うという意味なのかもしれない。

ギリシア語の「善」(agathon) という言葉には、道徳的な意味合いはありません。ただ「ためになる」という意味 です。一方、「悪」(kakon) という言葉には、「ためにならない」という意味 があります。

(No.528)

つまり、哲人は

価値=善悪≠道徳

って認識だと思う。

じゃぁ、道徳って何?って考えた場合、宗教的な意味合いになるのかなと思う。神の意志とか。

仮に哲人の言っている通り、アドラーは道徳(神の意志)を語っておらず、価値(ためになる)しか語ってないとしても、「お前はためにならないことをしている。」と言われれば糾弾されている気になるのは変わらないと思う。

しかも、共同体感覚のくだりで、共同体の範囲を宇宙や無生物まで含みうる、ということを言っているので、もはやそれは神の意志と変わらないのでは、と思うので、ほとんど道徳的な話をしていると思う。

本当の意味で、このテーマで、道徳を語っておらず、フラットに選択肢だけ示している本があれば読んでみたい。もしくは、糾弾してないというのではなく、正直に「そんな生き方をしているあなたはバカだ。」とはっきり糾弾してくれたほうがわかりやすいのに、と思った。

所有の心理学と使用の心理学とビジネス

よく新規ビジネスのアイディアを考える際に、自社が持っているリソースから考えるのではなく、生活者がどのようなものを求めているのか、から考えよう、という。

これは「何が与えられたか」(所有の心理学)と「与えられたものをどう使うか」(使用の心理学)の違いに相当すると思う。

生活者が求めているものがわかれば、それにむけて自社が持っているリソースを使う。

使用の心理学はこう言ったほうがいいのではないかなと思う。

「与えられたものを何にどう使うか」

「何に」というのがないと、「どう」使うかというのも決まらないので。これは英語で言ったほうがわかりやすいですね。つまり、

What do I have?

ではなく、

How do I use what I have?

って本にはあるけど、

For what and how do I use what I have?

って方がいいと個人的には思う。

ビジネス以外でも同じで、共同体の何に貢献するのかっていうのを考える必要があると思う。

そして、「何に」よって焦点を当てる「与えられたもの」は変わるのかなと思う。

例えば、あなたはある自動車メーカーの社長だとする。その会社はスピードのある車を作る技術を持っている。しかし、世の中の生活者はスピードではなく燃費の良さを車に求めていることがわかったとする。そうなると、「与えられたもの」は「スピードのある車を作る技術」ではなくなる。単純に「車を作る技術」でしかなくなる。

もしくは貢献する対象の生活者をよりニッチな「スピードを求めるユーザー」に変えるということも考えらる。しかし、ビジネスだと自分のリソースに合わせたユーザーを探すのは悪手な気がする。その後も自分を変えようとせず、ユーザー側を変えるようになり、結局一人もユーザーがいないという状況に陥るため。

なので、やはり、「与えられたもの」は一旦忘れ、「何に」を考えるのが大事だと思う。

主観の貢献感と現代の客観的なデータ重視は両立するか?

共同体感覚を得るには主観で貢献感を感じられればよいということだ。しかし、現代のマーケティングでは客観的なデータを重視する。売上、ページビュー、来店数など。ビジネスと私生活は違うという人もいるかもしれないが、現代では日常生活にもマーケティング的な考えを応用するのは普通になっている。婚活などもそうだろう。マーケティング的な感覚がない行動は、独りよがりだったり、自己満足的などと批判される対象になるのが一般的ではないか。それに対し、この本で主張される主観で貢献感を感じられればいいというのは、呑気すぎるきらいがある。この本の考え方とマーケティング的な考え方は両立できるイメージが持てない。

物語は不要?販売、就活、婚活でも物語が求められる現代

この本では、物語は不要とされる。しかし、現代社会では至るところで人を説得するための物語が求められる。商品を販売するために、その商品の背景などの物語を語る。これは一般的にブランディングと言われる。就活でも履歴書や面接で個人のキャリアストーリーを伝えることが求められる。婚活でさえも、支離滅裂で理解不能な人生ではダメで、ある程度相手に理解できる筋書きが必要となる。

確かに自分一人で生きていく分には、物語なんて意識しない方がすっきりして生きやすい。しかし、人と関わりたいなら、相手に理解してもらえる物語がないと、気味の悪い存在になり果ててしまうだろう。結婚できなくても死にはしないが、商品が売れなかったり、就職できなければおまんま食えない。「相手に伝わらないのは相手の課題だ!」とか言って超然としているわけにもいかない。

このような社会状況のなかで、この本の「物語は不要」という考えを貫くことはできるのだろうか。ここまで考えると、「物語を作って語ってもいいが、自分はそれを信じるな」ということかなと思った。自分で作った物語を人には語るが信じないということだ。自分はあくまでむき出しの「いま、ここ」にしか集中しないが、人には物語という砂糖でくるんだ情報を語る、ということ。

ここに誠実さがあるのかわからないし、詐欺師か二重人格にならないと難しい気もする。この本で良いとされる「対等な横の関係」と言えるだろうか。物語など信じてしまう相手を下に見ていることにならないだろうか。

競争社会、市場社会に染まった思考の中和剤か?

承認欲求の否定は、市場からの評価を意識するように馴らされた現代人には驚くような考えだ。また、他者との比較ではなく理想の自分との比較して優越性の追求しよう、というのは競争社会の考え方に染まった人には慣れない考え方だろう。

この本が現代社会で必要となる考え方とは合わないのでは?と最初考えていたが、そうではなくそういう考え方に染まって苦しんでいる人のための中和剤のような機能を果たしているのかもしれない。

前述した、現代では客観的データが求められるのにこの本は主観を重視していたり、物語が求められるのにこの本では物語をひていしてる、というのも、同じかもしれない。

つまり、現代社会で求められる考え方に適応するがゆえに生まれる苦しみを緩和するのがこの本の役割なのかもしれない。

なので、競争社会や市場社会になりきっていない国であれば、この本はそこまで受け入れられないのではないか。

人を自分の思う通りに動かすのではなく思う通りに動く人を探すのはいいのか?

承認欲求の否定、課題の分離という原則のなかで、相手を自分の思う通りに動かすことはしない。

もしもあなたが「他者の期待を満たすために生きているのではない」のだとしたら、 他者もまた「あなたの期待を満たすために生きているのではない」 のです。相手が自分の思うとおりに動いてくれなくても、怒ってはいけません。

(No.1682)

ビジネスで行われていることは、こちらの商品を相手に買わせるということ。とはいえ、現代のビジネスでは、欲しくない人に無理に買わせるというよりは、欲しい人を探して買ってもらう、という営みの方が多いように思う。マーケティング調査によって、消費者の層を分割して、自分の商品を欲している層をみつける、というように。

ビジネスでなくても、人を思い通りに動かすのではなく、思い通りに動いてくれる人を探す、というのはアドラー的には良いのだろうか、という疑問が浮かぶ。

ただ、思い通りに動いてくれる人を探す、というのは、よく考えると「所有の心理学」な気がしてきた。相手にしてほしいことの内容を変わらないものとして考えているから。しかも、誰かがそう動いてくれないなら、他の人もそう動きたくない可能性が高く、永遠に探さなくてはならなくなる。動いてくれない人をどんどん切り捨てていくことになり、焼畑農業のようになる。どんどん新規の知り合いにアプローチするので、アプローチできる対象が減っていくことになる。切り捨てた人が敵になってしまう可能性もある

やはり、こちらがしてほしいことをしてもらうのではなく、相手がしたいことをしてもらう、っていうのが本筋なんだと思う。でも、そう考えると、純粋に人にしてほしいことをしてもらうこと、って無理だということになり、少し暗い気持ちになる。

もし何かを人にしてほしいなら、それをしたいと思ってもらわなければならない。そのためには、

  1. 交換条件に合意する(金銭や便益)
  2. してあげたいと思う人物になる

1はビジネスそのものなので、難しくない。

難しいし重要なのは2だ。2を叶えるには、結局相手に好かれなければならないと思う。そうなると、嫌われる勇気、承認欲求の否定と相反してしまうことになる。

アドラー的な生き方をするなら、ビジネス以外で人に何かをしてもらう、ということは考えるべきではないということかもしれない。例えば「友達になってほしい」「恋人になってほしい」といった願いは持つべきではない、ということかもしれない。正直、非常につまらない人生ではないか。

それなら、この本で、哲人は「自分は幸福だ」と言っているが、「この世はくそつまらないものだ。」と言ってくれた方がわかりやすい。

それとも、「この世はくそつまらないものだけど、期待しなければたまにはいいことあるよ。」っていう意味で「幸福だ」と言っているのか。それならそう正直に書いてほしい。

課題の分離はそんなに簡単じゃない

誰の課題か見分ける方法はシンプルで、「その選択によってもたらされる結末を最終的に引き受けるのは誰か?」であるという。

しかし、そんなにシンプルだろうか?

例えば上司が部下に介入するケースを考えてみる。その仕事がうまくいかなければ、業績にかかわるので、上司も、そしてその会社から給料をもらう部下も結末はどちらも引き受けることになる。

体育会系的な文化を持つ組織の場合、先輩が後輩に責任を押し付けてくるような文化のもある。その場合、どう課題を分離をすればいいのだろうか。組織を離脱するしかないのではないか。

また、本文中に、上司が理不尽に怒りをぶつけてきた時は、それは上司の課題。上司が始末するべき、とある。しかし、怒りがをぶつけられることによって、こちらの仕事が進まなくなればこちらの課題になるのではないか。その場合はどのように対処すればいいのか?

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課題を分離したら、助けを求めにくくならない?

最近は、助けて、と人に言えずに、心を病んでしまったり、自ら命を絶ってしまう人もいる。ビジネスでも、早めに助けを求められないために、手がつけられないほど問題が大きくなってしまうことも多いと聞く。

ここまでは私の課題、ここからはあなたの課題としてしまうことで、さらに相手を頼りづらくなってしまうのではないか。現代の人に求められるのは相手を頼る力ではないか。自分の課題に人にも関わってもらう方が重要ではないか。

Takerにはどう対応すればいい?

見返りを求めるのは課題の分離とかけ離れた発想という。しかし、こちらがGIveし続けるのを当然のように受け続ける人、つまりTakerにはどのように対応すればいいのか。

本書では共同体に貢献することが良しとされる。なので、こちらとしては何かをGiveしようとする。しかし、一部の全くGiveをしない人にそれを無為に搾取されてしまうのは悲しい。

TakerだとわかったらGIVEを停止すればいいのか。

ちょっとした欲望に答えるGIVEはせずに、根源的に必要としているものをGIVEしないとだめなのかな。そのためには、相手が何を必要としているか見極める時間が必要なのかも。すぐに与えてはいけない、ということか。なぜすぐ与えたくなるかというと、やはりよく見られたい、好かれたいという気持ちを抑えられないから。この辺にも嫌われる勇気は関わってくるのか。

ここで思い出したのが「7つの習慣」という本の「Win-Win以外はNo Deal」という考え方。Win-Winにならないなら、無理に取引しないということ。やたらめったらGiveするのではなく、納得する条件にならなければ取引しないということが大事なのかもしれない。きちんと相手の求めていることと、こちらが得られるものを見定める期間が必要なのだろう。すぐにGiveしてしまう癖がある人は注意したい。

「嫌われる勇気」って表現、語弊がないか?

タイトルの「嫌われる勇気」だったり、哲人の「自由とは、他者から嫌われることである」と言う言葉は語弊がある気がする。

二つの選択肢があるとして、一つは好かれる行動、もう一つは嫌われる行動。他の条件が同じなら、後者を選ぶということになる。

結局哲人は「嫌われることを恐るな、といっているのです。」と少し表現を変える。つまり、あえて嫌われることをしろといっているのではない、ということ。

なので、タイトルとかは語弊があると思うし、「嫌われることを恐るな」にしちゃうと「普通のこと言ってるなー」としか思えない。でも、以下のようにも言っている。

あなたが誰かに嫌われているということ。それはあなたが自由を行使し、自由に生きている 証 であり、自らの方針に従って生きていることのしるしなのです。

(No.2051)

もし、わたしの前に「あらゆる人から好かれる人生」と「自分のことを嫌っている人がいる人生」があったとして、どちらか一方を選べといわれたとしましょう。わたしなら、迷わず後者を選びます。他者にどう思われるかよりも先に、自分がどうあるかを貫きたい。つまり、自由に生きたいのです。

(No.2076)

これを読むとやはり、嫌われるようなことをしろって言ってるように読めるんだよな。これまで過度に好かれようとして生きてきた人には、これくらい言ったほうがいいって言う意味でこのような強めの表現なのかな。

「嫌われる」のと「承認されない」って同じかな?

「承認欲求を持つな」と言われれば、「そうか。そうしよう。」と思えるんだけど、「嫌われろ」って言われると「ん?」ってなる。

承認されなくてもいいから、普通に人として接してほしいくらいには思ってしまう。嫌われるっていうのは、邪険に扱われたり、見下されたり、ひどいことを言われたり、と言うことだと思うので。

なので、「嫌われる」と「承認されない」って同じ?と言う疑問が生まれた。

私の常識感として、全く承認していない人にも邪険には扱わないし、丁寧に接する。しかし、一般的にそうではないのかもしれない。つまり、一般的には、承認していしる人以外は、邪険に扱う、見下す、などは当然のことなのかもしれない。

私は初対面の人などに、邪険に扱われると、敵意を持たれたかな、嫌われているのかな、と思ってしまっていたが、承認されていないだけか、と思えば、もう少し気楽になれるかもしれない。

他の成功哲学の本だとほめることや協調性を重視してるんだよなー

以下のようにデール・カーネギーやスティーブン・コヴィーもアドラーに影響を受けたとされています。

世界的ベストセラーの『人を動かす』や『道は開ける』で知られるデール・カーネギーも、アドラーのことを「一生を費やして人間とその潜在能力を研究した偉大な心理学者」だと紹介していますし、彼の著作にはアドラーの思想が色濃く反映されています。同じく、スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』でもアドラーの思想に近い内容が語られています。

(No.194)

ただ、「人を動かす」は、「相手とぶつかるな」だったり「人をほめろ」というように、人との協調性を重視して人に嫌われないようにするような考え方が中心だと私は考えている。なので、承認欲求を否定したり、相手を評価しないなど、アドラーとは全く逆だと思うのだが、どう影響を受けたのだろうか。

「7つの習慣」の第一の習慣の「主体的である」など、とてもアドラー的な考え方が散見される。

スティーブン・R・コヴィー (著), フランクリン・コヴィー・ジャパン (翻訳)

ただ、第二の習慣の「終わりを思い描くことから始める」はどうだろう。以下に紹介した、「思考は現実化する」などのさまざまな成功哲学本でも「目標を明確にしよう」と説いている。しかし、アドラーは「目標などなくてもいい」と、真反対なことを説く。

思考は現実化する|要約|潜在意識を自由自在にコントロール?世界で1億部売れている歴史的な成功哲学書、ナポレオン・ヒルの「思考は現実化する」を読みましたのでまとめてみました。 願望と目標を明確化...
ナポレオン・ヒル (著), 田中 孝顕 (翻訳) きこ書房 (2014/4/10)
ナポレオン・ヒル (著), 田中 孝顕 (翻訳) きこ書房 (2014/4/10)

これは非常に悩ましいが、個人的には目標を決めることは必要だと思うし、アドラー的な考えと共存もできると思う。目標を決めるのが必要という理由は、例えば、朝、会社に出勤する際、アドラーのいうとおり、「いま、ここ」だけにしか集中していなければ、家を出た瞬間、「あれどこ行くんだっけ?」ってなると思う。ちょっとしたことだけど、「会社」という目標を意識しなければ、会社にたどり着くことはない。なので、何かしら「目標」があって「いま、ここ」があるんだと思う。

どう考えればいいかというと、以下で紹介したエッセンシャル思考という本が参考になる。

エッセンシャル思考|要約と感想と書評|本当に成果は上がるの?<グレッグ・マキューンの「エッセンシャル思考」を読んだので、要約と感想と書評を書いてみました。簡単に言えば、やるべきこと、やりたい...

要は目標を考える時間と、作業をする時間を分けるということだ。目標を考える時間は、それはそれで「いま、ここ」に集中している。「目標を考える」という作業に集中しているからだ。目標が決まったら、それにむけて目の前に作業に集中する。こうすることで、常に「いま、ここ」にスポットライトを当てた生き方になる。「嫌われる勇気」では詳しく書かれていないけど、アドラー的な考え方ってこういうことなのではないか。

ただ、「思考を現実化する」では願望がすでに実現しているときのイメージを潜在意識に流しこむ「深層自己説得」という手法が勧められている。これは「嫌われる勇気」でいう優越コンプレックスにつながる行為ではないか。

自己肯定とは、できもしないのに「わたしはできる」「わたしは強い」と、自らに暗示をかけることです。これは優越コンプレックスにも結びつく発想であり、自らに嘘をつく生き方であるともいえます。

(No.2875)

ここは個人的にどう考えていけばいいのかな、と悩んだ。「嫌われる勇気」で勧められているありのままの自分を受け入れる自己受容と、深層自己説得は逆な行為だ。

まずは自己受容をして、その段階で願望や目標を現実的な努力をする前提で可能なものに設定するということかもしれない。現実的な努力で可能な願望や目標であれば、深層自己説得しても優越コンプレックスにはならずに、健全な優越性の追求になると思う。

そして、一旦設定した願望や目標が、途中で非現実的だとわかったら、その時点で自己受容をし、もう一度願望や目標を調整し深層自己説得しなおせばよいということかもしれない。つまり、柔軟に自己受容と深層自己説得を行き来するということ。

つまり、「思考は現実化する」は特に優越性を追求するフェイズについて語っている本だと思われる。

「勇気づけ」って「操作」じゃない?

この本では、良好な人間関係を築くために、縦の関係に基づいて、ほめたり叱ったりするのではなく、横の関係にもとづく「勇気づけ」を推奨している。

ほめたりしかったりすることは相手を操作することに繋がるからよくないということだが、勇気づけも操作ではないか?というのは、相手が課題に向き合うための勇気を持ってもらうために、素直な感謝を伝えるというのも操作であると感じる。確かに素直な気持ちかもしれないが、意図して行うことだし、「勇気づけのアプローチ」という言葉の「アプローチ」という言葉が操作感がある。そもそも、相手が課題に向き合う勇気をつける、というのが課題への介入に他ならないと思う。

そこで、こう考えてはどうか。誰かと良好な関係を築こうとすること自体が操作だ。なので、全ての他者に素直な感謝を伝える習慣をつけよう、という方がわかりやすい。相手ではなく自分側が変わる、っていうこと。

素直になったとして都合よくポジティブな感情だけ伝えられる?

勇気づけの方法として、素直な感謝の気持ちを伝えるとある。私の場合、素直になってしまうと、もちろん、感謝している時は感謝の気持ちを伝えられるが、腹が立った時や困惑した時などはネガティブな感情を伝えてしまうかもしれない。どうして、そうポジティブな感情だけを選択して伝えられるのだろうか。素直というのは選んだ時点で素直ではなく、意図が入っているのではないか。本当の意味で素直になるのなら、ネガティブな感情も表に出てしまっても仕方ないのではないか。

そういうネガティブな感情を表に出さないために、素直さを失っている人が多いのではないか。

場合分けして考えてみた。

・ポジティブな感情が浮かんだ場合

素直なら⇒感謝

素直ではないなら⇒評価

・ネガティブな感情が浮かんだ場合

素直なら⇒直接的なネガティブな言葉

素直ではないなら⇒評価

となる。一般的には、ポジティブな感情が浮かんだ場合は素直になり、ネガティブな感情が浮かんだ場合は、素直でないのが、良いマナーとされるだろう。

つまり、ネガティブな感情が浮かんだ場合、素直にネガティブな言葉を直接的に相手にぶつけるよりも、引いた視点で評価的に伝えた方が、摩擦が少ないと。

「私はあなたのさっきの振る舞いに怒っている」

「あなたのさっきの振る舞いはマナー違反だ」

後者の方が大人な言い方とされる。

でも、よく考えたら、ネガティブな感情の場合も素直になって、相手に直接的にぶつけるほうが、良い気がしてきた。評価的に伝えるほうが、操作の意味合いが強くなり、縦の関係になるからだ。

ただ、本当に直接的にネガティブな感情を伝えるなら、言葉の言い回しよりも、声のトーンや表情などの非言語の方が大事な気がする。それはポジティブな感情の時もそうだが。

この本は、人に罵倒された時は、「怒りという感情に頼らずに言葉を使おう」というが、ポジティブな時は素直な感情を伝えるのに、ネガティブな時は感情ではなく言葉を重視するのが、非対称的で分かりづらく、テクニック的に感じる。

ここまで考えて思い出したが、目的論だ。

ネガティブな感情を直接的に、例えば声のボリュームを上げてにらみつけて伝えることを、哲人は「怒鳴るために、怒った」というでしょう。怒りを捏造したと。

一つ思考実験をします。青年が困っている時に誰かに助けてもらった場合、めちゃくちゃ笑顔で感謝の言葉を伝えた場合、哲人はどういうでしょう。

「笑顔で感謝の言葉を伝えるために、ありがたいという感情になった。ありがたいという気持ちを捏造した」というのでしょうか。そうは言わないでしょう。素直な感謝な言葉を伝えるのを奨励しているので。

こう考えると、怒りを伝えるのは目的論で解釈するのに、感謝を伝えるは目的論では解釈しない、ということ。ダブルスタンダードではないか。

二種類の感情を伝えるという行為で、解釈の仕方が違う理由を考えてみた。感謝の場合は、相手によく思われ、怒りの場合は相手に悪く思われる、という違いとしか思えない。そう考えると、この教えは承認欲求を肯定してしまっているのではないか。処世術的なテクニックなのかな、と思ってしまう。

あぁ、でも感謝を伝えるのも目的論で解釈してもいいのかな。「笑顔で感謝を伝えるために、ありがたい気持ちになった。ありがたい気持ちを捏造した。」これをしようっていうのが、勇気付けなのかな。でも、捏造って「すなお」とは違う気がするんだよな。

ここで、思い出したのがデール・カーネギーの「人を動かす」。「どんどんほめよう」的な教えで、アドラーと真逆と思っていた。でもアドラーも感謝の気持ちを捏造してどんどん感謝を伝えよう、っていうことだとしたら、実は二つの本は近いのかもしれない。

貢献感を目的論で解釈するとどうなる?

共同体に貢献して共同体感覚を得るのが良いとされている。

感情に動かされた行動を目的論で解釈する例にならって、これを解釈すると

共同体に貢献するために共同体感覚を捏造した、といことにならないか。捏造できるくらいなら、わざわざ行動しないでも、この感覚だけ捏造して幸福になってしまえばいいのではないか。

ここまでくると、捏造とされる感情と捏造されない感情がある気がしてきた。どういう違いがあるんだろう、と思うと、社会と調和できるかどうかなのかな。怒りは社会と調和しにくいから捏造されたとされ、感謝や貢献感は調和しやすいから捏造とはされない、ということか。

だとしたら、そういう説明の方がわかりやすい。「社会と調和しない感情は捏造したと考えろ」と。でも後半で哲人はこんなこともいう。

悲しいときには、思いっきり悲しめばいいのです。痛みや悲しみを避けようとするからこそ、身動きが取れず、誰とも深い関係が築けなくなるのです

(No.2994)

ここでは、悲しみという少し社会と調和しにくい感情を目的論で解釈せず、捏造とは言っていません。先ほどの怒りとは何が違うのでしょうか。

感情の先にある行動かな。怒りの場合は他者に怒鳴るという行動。悲しみの場合は、悲しむという他者とは関係ない行動。つまり、他者と調和しない行動につながる感情は捏造とする。というか、結果的にそういう行動につながらなければ捏造とはしない、ということ。

これは結局何が言いたいのか考えた。つまり、単純に「社会と調和しない行動をするな。そういう行動をする言い訳は全て認めない。」ということ。

感情と理性を分けない「全体論」を言いたいんだと思うんだけど、「全体論」を主張するのはなぜか、と考えると、感情と理性をわけちゃうと、感情を言い訳に色々とよろしくない行動をしてしまうので、最初っから感情と理性は一体と信じ込んでしまった方が、より良く生きれるということだろう。

なぜフロイト的な心理学を否定するか少しわかった。感情を分離して自分の感情を外から分析する心理学だ。感情を外から見つめていたら、全体論を信奉することはできないだろう。

ここまで考えると、アドラー心理学は、率直に言っちゃいたくなってきたけど、「自分のダメな行動の言い訳するな!っていうすごくマッチョな思想。」テクニックなんて書いてない。回りくどく具体的なノウハウがありそうに書いているのがずるいと思う。

ダメな行動というのは、たぶん共同体に貢献しない行動だろう。つまり

「共同体に貢献しろ!貢献してない行動の言い訳をするな、っていうすごくマッチョな思想」だと思った。

青年は感情を否定するなら人間は機械になってしまうという。哲人は感情に支配されて自由意志を否定するのが機械であるかのようだという。ここには人間対機械という対立があり、当然だが青年も哲人も人間は機械よりも人間である方がよしとしている。では人間らしいのはどっちなのだろうか。感情に動かされる方か、自由意志で動く方か。

もちろん哲人は感情を全否定しているわけではなく「人は感情に抗えない存在」ではない、としているだけ。であれば、感情に抗う方法をもっと詳しく説明してくれればいいのに、と思う。

そこで自由意志とは何か。自由意志を生むものは何か。それは感情じゃないのかという気がしてしまう。

何にも依存しない自由な意志って神の意志くらいじゃないのか。神の意志を人間も持っているということかな、という気がする。ニーチェの言葉「神は死んだ」を思い出した。アドラーはニーチェから影響を受けたとされる。身体、感情などの障害物はあるが、意志自体は神と一緒で自由だ、ということか。ただ、共同体感覚を志向するという条件はつくが。神の意志もきっと共同体感覚を志向しているはずだから、そこはかわらないか。やはり、身体や感情があるというのが違いか。

ここまで考えると、身体や感情を共同体より下に置く意味は無いと思う。なので、身体や感情と共同体を分けて考えている意味もない気がする。全てが調和すればいいのではないか。少し仏教的な感じになる。頂点が無いという意味で。ただ意志だけは分離しているので、それが頂点になるのか。意志まで統合されていると考えてしまってもいいのだろうか。

評価と感謝ってそんなに違うの?

他者には評価ではなく素直な感謝をすることで勇気づけを行うとある。また共同体感覚、つまり貢献感は、他者の評価からではなく役に立っている主観的な感覚から生まれるという。

疑問なのは、評価と感謝ってそんなに違う?ってこと。例えば、SNSで「いいねボタン」が「ありがとうボタン」になったとしても本質は何も変わらないだろう。

また、上司ができる部下に対して感謝の言葉を伝えるはほめるのと何が違うのか。アドラーが重視する共同体感覚とは、主観によって「わたしは他者に貢献できている」ことだ。

「今回の君の仕事ぶりには助かったよ。」と言われても「今回の君の仕事ぶりはすばらしいよ。」と言われても、どちらでも貢献感を感じられる人もいるだろうし、どちらでも感じられない人もいるかもしれない。

結局大事なのは、「本当に役に立てた?」ってことだと思う。「助かったよ」でも「すばらしいよ」でも、素直ではなく何か別の目的を持って言っている場合は、貢献感は感じられないだろう。もっとやる気を出させようとして言っているんだなー、という裏の意図の方が感謝の気持ちよりも強く感じられたら「助かったよ」でも貢献感は感じられないだろう。

他者に自分の貢献の確認を任せるのではなく、その確認は自分でやるってことだと思う。人にほめられて簡単に喜んでしまうのは、貢献の確認を人任せにしていることだと思う。

そう考えると、相手の言葉も大事だが、行動に注目することが重要だ。上司と部下の場合は、例えば、任せてくれる仕事のレベルが上がる、給料を上げてくれる、やめようとしたら引き止められる、など。営業マンと顧客の場合は、実際に売上が上がる、などであろう。もちろん、言葉からわかる本音もあるが、行動がそれを裏付けるということだ。

行動というのは数値で見ることができる、売上、来店数、ページビューなど。もちろん数値化できないものもある。声のトーン、笑顔の質、など。もちろん現代の音声解析や画像解析を使えばそれらも数値化できるだろう。

数値ではなく、人間の五感で感じられればそれでもいい。それが主観で感じるということだと思う。大事なのは、貢献がわかる生の情報だろう。他人に編集されていない生の情報ということだ。そう考えると、他者の評価であっても、一人ではなく多くの人のものを総合すれば、「編集され度合い」は減って生の情報に近づくとも考えられる。

とはいえ、この本では「目に見える貢献でなくもていい」というのでよくわからなくなる。何の拠り所もなく自分は役に立っている、と勝手に思っていいということだ。この考えだと、勝手に貢献していると思い込む自己満足おじさんになってしまわないか心配だ。

これはどう考えるのがいいのか。自分が貢献している証拠探しにあまり必死になるな、ということかなと思った。人に勇気付けを行うときは、こういう情報を提示するのが有効だが、自分のためにそういう情報探しはしないほうがいい、ってことかもしれない。そういう情報で貢献感を感じられるかもしれないが、それを自分から探そうとまでするのは他者の人生を生きている感じがある。こう考えてくると、ますます評価と感謝の違いがよくわからなくなる。

それに、生の情報で相手に貢献できていると主観で感じられていても、より大きな共同体のレベルで考えたら、マイナスの貢献をしている場合もあるだろう。例えば、会社である部署の売上には貢献できたとしても、他の部署の売上を食ってしまっていて会社全体の売上は減ってしまっていたり。また、会社の売上に貢献したとしても、地球環境を汚染してしまっていたり。

なので、生の情報、自分の感覚、思想、良心を用いて総合的に感じるものなのかもしれない。評価はダメで感謝は良いと単純にこの本の中で言われているのは、これに気づかせるための入り口に過ぎないのかなと思う。

対等な横の関係を目指すのに自分にだけ厳しい考え方

縦の関係ではなく、対等な横の関係を作るのが良いとされている。その方法として、すなおな感謝な気持ちを伝えるなどの勇気づけという手法がすすめられる。

それなのに、自分の貢献は目に見えないものでもいい、などと暗に確認をよしとしないように言っている。当然、承認を求めるのは否定されている。これって対等って言えるのかな。

以下で言われているように、まずはこちらから始めろってことなのかもしれない。

他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく

(No.2702)

ただ、「始める」という言葉に違和感がある。この言葉には「始めた」後に、他の人が2番目、3番目と続くイメージだ。これは他者に期待していて、課題の分離に反しているのではないか。

そもそも、「対等な横の関係」という言葉自体、相手に対等に接するように期待している言葉ではないか。ここは、こちらからは対等に接するが、相手からどう扱われるかは気にしない、という意味なのか。でも、対等に接してくれない相手と関係を続けたいと思うことはないので、こちらから関係を断つことになる。この本でも関係を断つことは自由とされているので。

それとも、「対等な横の関係」は相手に何かを期待している言葉ではないということか。つまり、相手に対等に接するのは、人として当然の振る舞いであり、公共の場で服を着るレベルの基礎的なことということか。なので、対等な扱いは相手に期待してよくて、こちらも対等に扱っているのに相手が対等以下で接してきた場合は、関係を切るのは何の問題もない、ということか。

いや、しかし、相手から対等な扱いを期待するのはやはり間違いという気がする。というのは、相手はアドラー心理学なんて学んでおらず自然な傾向性に身を任せている人がほとんどのはずだ。というのは、そうでなければこの本はこんなに売れていない。なので、多くの人はこちらに承認を求めてきたり、評価してきたり、課題に介入してきたり、逆に相手の課題に介入させてきたりする。これは対等だと言えないのではないか。つまり、こういった本で、相手を人として尊重した扱い方を学べば学ぶほど、相手のこちらへの接し方とのレベルの差ができてしまい、対等な関係とは遠くなってしまう。そういう状況でどうしたら対等な横の関係を作れるのだろうか。正直この本を読んで悩んでしまう問題だ。

一つの可能性としては、行為のレベルと存在のレベルの考え方だ。相手のこちらへの接し方は行為のレベルと言えるが、相手に存在のレベルで感謝できるか、ということだ。仮に対等に接してくれなくても、存在自体に感謝できればいい、ということだ。これはヒモに搾取されるみたいな情けない関係に思える。相手に対等に接してもらえないが、存在がありがたいので関係を維持する、といいう意味で。こういう関係を維持する場合、相手がこちらを評価してくるのは気にしない強いメンタルを持てばいいが、相手がこちらの課題に介入してきた場合は、介入させないようにしなければならない。その過程で衝突して関係が崩れる可能性は出て来るが。

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ハレとケ。普通の日常を生きろ

この本では「普通であることの勇気」が推奨される。歴史に名を残したり、高邁な理想などを目指して特別になろうとするのではなく、「普通の自分」を受け入れようという。これは、「いま、ここ」とはかけ離れたものを見て現実逃避的な視野になることを戒めているように思った。

ここで「ハレとケ」という概念を思い出した。ハレは祝祭や儀式を表し、ケは普段の日常生活を表す。ケが続く中に、たまにハレがあるぶんには問題ない。しかし、それが逆転し、ハレばかりになってしまうと、人生は狂ってくるだろう。ハレには魅惑的な魅力があるので、ついつい人生の中心に据えてしまいがちだ。例えば、夜遊び、お酒、ギャンブルなど。「普通であることの勇気」はケを受け入れろ、と言っているように感じた。

特別である必要はないと言いつつキラキラした言葉を使う

この本は、特別な存在である必要はなく、普通であることの勇気を持とう、という。高邁なる目標をめざすような、人生を「線」と捉える生き方ではなく、人生を点の連続、つまり「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てダンスすように生きようという。

しかし、このダンスやスポットライトなどの言葉はドラマチックでキラキラしていて、「私は特別」という思いが見え隠れする。なぜこんな言葉を使うのか。「いま、ここ」だけでよいのではないか。劇的なイメージは物語を前提にしていて、この本の趣旨と矛盾する。

この本では、高邁な目標などに陶酔してしまい地に足つかない生き方を戒めていると思うのだが、ダンスやスポットライトはまさに陶酔を促す言葉ではないか。

この本から得られること

自分の幼稚な言動や考え方に気づいて修正できる

この本は正直、論理的な構成になってないし、矛盾していると思われることも多い。なので、何か一貫性のある主張をしているのかよくわからない。じゃぁ読む価値ないじゃん、って話になるかもしれない。でも読む価値はある。

大人ってこんな人だよなー、とか、しっかりした人ってこんな人だよなー、というざっくりとした人物像を誰しも持っていると思う。過去を言い訳にしないよなー、自分の課題と人の課題を混同しないよなー、自慢しないよなー、不幸自慢もしないよなー、とかって、この本を読むまでもなく、しっかりした人物のイメージとしてあると思う。そういう人物像の具体的な特徴を列挙して記載したのがこの本だと思った。

この本に書いてあることが頭に入っていると、自分を含めて人の幼稚な言動に気付けて、しかもその言動がなぜ幼稚なのかがわかる。ただ、そのような言動をなくせるかどうかは別問題だ。正直、非常に厳しいことが書いてある。理想主義的とさえ言える。でも、気付くことが修正の第一歩になる。

現代社会を生きるために染まった考えを中和する効果

競争社会や市場社会では、他人と比較したり他者からの評価を気にして苦しんでいる人が多いのではないか。また、就活市場、恋愛・婚活市場・SNSでは自分に物語を付与してセルフブランディングをするのが普通だが、そんな物語に縛られて苦しんでいる人も多いだろう。

そういった現代に最適化して苦しんでいる人への中和剤になる考え方がこの本には書かれている。承認欲求、他者との比較、物語を否定する。

とはいえ、そうした現代に最適化した考え方というのは必要だから身につけたスキルのようなものだ。今更、そういう考え方を完全に捨ててしまえば競争社会や市場社会では生き残れないのが現実だろう。なので、あくまで「中和剤」だ。この本のような逆の考え方を知ることで、苦しくならない程度に両者の間でバランスをとって生きていける。

さいごに

私は最近Takerに遭遇してしまう機会が多く、どのように考えたり、対処していけばいいかのヒントを得るためにこの本を学び直しました。その具体的な答えは正直みつかりませんでした。ただ、やはり課題の分離や、存在のレベルでの感謝などが鍵になるように感じました。後は実際の生活のなかから自分で掴み取っていくしかないのだと思います。

正直、マニュアル的に手取り足とり細かく書かれたノウハウを求めている人にはオススメできません。細かく見ていくと矛盾点がたくさんみつかり混乱して実践できないでしょう。

ただ、おおまかな大人な個人としての考え方や振る舞いの方向性が知れて、現代の競争社会に最適化した考えを中和する効果があり、それを自分の生活の中で応用して自分なりのノウハウを見つけられる人には良い本かもしれません。